人気ドラマに文句を言う人々
『半沢直樹』など人気ドラマが放映されている現在、
Yahoo!のトップページなどでそういった話題のドラマに対して、批判記事が掲載されているのを目にしたりする。
またSNSなどでドラマに対して批判したり、結末に対して文句を言う人がいるらしい。
当然、個人による内容に対しての好き嫌いはあると思う。好き嫌い程度で感想を言うのならどうでもいいのだ、どうせ個人の感想なのだから。本当に嫌なら観なければいいだけのことだし。
気になるのは文句・難癖のつけ方なのだ。
Yahoo!のトップページに載せるほどの記事なのかと思うドラマ批判もあったりする。
たとえば『半沢直樹』でいうと、
半沢直樹で描かれていることは実際の社会でも本当にあることなのか、と難癖をつけている記事があった。個人ライターの記事なのだけど。
「あんなこと今のコロナ禍(アフターコロナ)の社会ではありえない」とか「時代遅れだ」とか、「パワハラだらけで問題になる」だとか『もはや現代時代劇だ』とか。
でも、そもそもあのドラマはフィクションなわけだ。実話を元にした作品ではないわけだ。
現実の社会で起きていない・起きるはずがないからつまらないとか、現実とは違うから時代遅れだからとか文句を言って、なんとか半沢直樹の視聴率を下げようとネガティブキャンペーンに必死な記事。
そもそもそういう観方がまずおかしいのだ。
何故、現実社会と異なる部分があるからつまらないと判断するのか。
ドラマを面白くする演出なのに、「現実ではありえないからつまらない・現実では起らないから楽しめるはずがない」と演出そのものが理解できない人たち。
つまらないなら観なければいいのにと思うのだけど、わざわざ観てつまらないと記事を書く人々。話題になってるからとりあえず見ておくか程度の人々(で、文句を言う人々)。
お店とかにちょっとしたクレームでもつけたくて仕方ないという部類なのではないかなとも思える。
自分でね、レンタルショップとかで借りてきた作品とかだったなら、批判・考察は別に全然ありだと思うけど(実際に海外映画とかクオリティーがとんでもなく低く、すごくつまらない作品も多い)。それも個人のブログとかでやるべきだし。わざわざYahoo!のトップページに載せる記事ではないはず。
なんか、フィクションをフィクションとして楽しめなくなってる・捉えられなくなってる人たちが多くなってる印象。
自己投影してきたから裏切られた結末に文句
どうも、ドラマ(以外にも小説とか漫画とか)・創作の主人公に現実の自分を投影させないと気が済まない人たちもいるようなのだ。
ちなみに、自己投影と感情移入は似ているようで異なる。その辺はなんとなく分かると思う。
たとえば別のドラマになるけど、主人公の女性が、結末で二十歳以上年が上の男性と結婚したら気持ち悪いという感想を抱いた人がSNSでそこそこいたという記事を見た。
主人公の女性を自分に投影してきたから、女性たちがこの年の差婚に拒絶反応を示したらしい。
まあ、この感想、かなりの差別反応ではある。
たとえばこれが逆の立場だったら。男の方が二十代で女の方が五十代、その二人がドラマの結末で年の差婚したら、批判はもっと少なかっただろう。多様化だと好意的に騒がれていたかもしれない。
でも、結婚相手が50代男だろうが50代女だろうがどっちも多様化だからね。
普段、差別差別だと騒ぎながら、自分たちが優位に立つ出来事なら気にしないという、おかしな差別意識を根底に抱えているのだからどうしようもない。
海外でなんて二十歳以上の年の差婚カップルなんて珍しくないというのに。騒がれることさえもないというのに。
好き同士なら別に年の差がいくらあろうがいいじゃないか。他人がどうこう言う問題じゃないのだ。
ちなみに、昔の日本(江戸時代とか)も二十歳程度の年の差婚なんて珍しくなかったのだ。18~20歳くらいの女性が40歳代の侍に嫁ぐとかね当たり前にあったわけだし。それでどっちかが不幸だったかというとそんなはずもなく、子孫繁栄して幸せだったというのもよく聞く話。
こういう部分って、ほんと現代人(特に現代日本人)の考え方・ものの見方・了見が狭くなってるんだなって思う。
多様性多様性だと騒ぐ人ほど、実は多様性なんて認めないって傾向の人も結構いたりするしね。都合のいい時だけ多様性と騒ぐ人たち。
作品にリアリティってそんなに重要?
作品(特に世界観の方)にリアリティはあるか、とよく言われる言葉。視聴者・読み手等の自己を投影しやすくするためのリアリティ。リアリティのある作品ならば高い評価を得られるという傾向。
でも、実は本当に長く愛される作品というのは、現実に寄せた作品・リアリティを追求した作品ではなかったりする。
現実社会に合わせれば合わせるほど、その時代でしか通用しない作品になってしまう。時が経つと簡単に忘れられてしまう作品が多い。
たとえば『ドラゴンボール』。あの作品の主人公・悟空に自分を投影させる人はまずいない。というか無理だろう。
でも、面白いと長年愛されている。自己投影はできなくても感情移入は大いにできるからね。
ファンタジーものでいうと、80年代~90年代その代表ともいえる『ロードス島戦記』などもそう。あの作品の主人公パーンに自分を投影させる人はいない。というか、できない。昨今流行の異世界転生ものとかではない完全にファンタジーの世界だからだ。
でも、長年愛されている。
社会・時世に無理に合わせていないから、いつの時代に読んでも面白いと感じられるのだ。
そもそもこうした作品が発表された当時の人々は、それらの主人公に自分を投影させることなどしなかった。純粋に作品を楽しんだし、自分を投影させずとも楽しみ方に自由さがあった。
絵本なんかでもロングセラーになるのは、当然だけど時代というものをあまり感じさせないもの。いつの時代に読んでもこういうことってあると共感できるもの。リアリティを省いても共感に特化したもの。
海外映画なんかも良い例だろう。
まさか海外映画の主人公に自分を投影させないと面白くない、なんて思う人はいないと思う。だって、そもそも社会が違うのだから。
まさか社会に合わないから、海外映画は『時代劇だ』なんていう難癖も聞いたことがない。
あと、難癖でよく言われたのが、ファンタジー(現代小説以外の作品)を書く際、宗教を入れないとリアリティが作品に出ないというもの。
現実の史実の宗教を盛り込まないとファンタジーは成り立たないと言う人がいた。
そんなわけあるか、と思う。ファンタジーはそもそも架空の世界なのだ。架空の世界に実際にあった宗教を絶対に盛り込まないと世界が成り立たないなんて、よくよく考えたら大きな矛盾。
ヒットしている漫画とかだと分かりやすいと思うけど、『NARUTO』とか、あの世界観は宗教というか文化そのものがかなりぐちゃぐちゃである。
じゃあ、それが悪いのかといえばそんなはずはなく、そこに突っ込むどころか大いに受け入れられて新しさ・とんでもないオリジナリティーを生んでいる。
『NARUTO』以外でもそうなのだけど、世界観が完全に作者のオリジナルでも、それは創作論として悪いことではなくヒットはするのだ。そしてヒットさえしたらそれが正解になるのだ。
リアリティを無理に求めなくても名作の作品は数多くある。
最近では、架空の世界だったらすべて架空の世界観を貫けとも言われるほど。というのも、今は海外でも作品が公開されることもあるから。よく知りもしないのに外国の宗教観とかを盛り込んだせいで、海外の人から見ると矛盾・デタラメだらけで首を傾げる、なんてこともあるそうだ。だから海外ではヒットしない、と。
色々と個人的に書いてきたけど、その場しのぎの作品を売っていってる傾向にある昨今の出版業界もいけないのだけどね。漫画はまだロングヒットが出ているものの(それでもヒット作は激減している)、その他のジャンル、なかなかロングセラーになる名作を生み出せない編集業界。
過去の名作にすがり過ぎな業界。その体質を変えていかないとね。