正社員として働いていた頃、パワハラを受けてうつ病が再発してしまい、退職後にカウンセリングを受けに行った時のこと。
『自分の存在が消えてしまいそう・自分の居場所を感じられない・閉じ込められているような感覚を味わう』という悩みについて聴いてもらった。
存在を認めてもらいたい気持ちが強い。
何でこのように身体が思っていたのか、あまり分かっていなかったのだけれど、この日カウンセラーと話をしていて、過去の家族間での出来事(事件と言ってもいいらしい)が大きな要因らしいことが判明。
そういえば、メンタルクリニックの門を初めてくぐった時や、大学のカウンセラーを利用した時、『自分史』というものを執筆して、それを渡していた。
だから、僕がどういう悩みを長年かかえてきたのか、分かりやすかったらしい。そんなわけでこの間、クリニックの医師は『存在を認めてもらいたい気持ちが強い』なんて言ったんだなぁ、と。
「自分史なんて見てもらっても何の意味もなさない・苦しい過去を語るなんて心が疲弊して面倒くさいだけ」になって、自分史というものを語るのも書くのも、やめてしまっていた。
カウンセリングを受ける時、六・七年ぶりに自分史というものを語って聞かせたわけだ。
自分に非があると思い自分を責めてきた過去の家族内での事件も、そんなに自分を責める必要のないものであることが分かった。
家族全員から「どうして」「なぜ」という原因を追究してもらえずに、一方的にお前が悪いと言われ続けてきた。
『そういう時期なんでしょ』という言葉を使って簡単に片付けられた(当時、大学受験生だったこともあり)。
家を追い出されるほどの疎外感を味わった。以降ずいぶん長い間帰ることを許されない苦しみを味わった(少し和解したけれど、今でも帰ることを許されない状態は続いている)。
その当時は『死ねばいいや』なんて思っていたから、分かってもらいたくなんてない、という気持ちもあったんだっけ(『死ねばいいや』という気持ちは自己防衛になっていたため、マイナスだけをもたらすものではなかった)。
こういうことがあったため、「どうして」「なぜ」を問われることなく、心の苦痛を理解してもらえることなく、『誰からも疎まれる・一方的にお前が悪いのだと思われる』。
そういうふうに心身が構えるようになってしまっているようだ。だから、人と接する時にひどく体が怯えてしまっている自分がいる。
故に、対人恐怖の一つのきっかけにもなっているのかな、と。
漠然と『存在を認めてもらいたい』なんて思っていたけれど、ちゃんと原因というものはあるんだね。
存在を認めてもらいたい、というのは、『生きている自分を認めてもらいたい』『自分がここにいてもいいと思える場所が欲しい』ということ。
そういう気持ちは無意識の内に持ってここまで歩んできたけど、もがくだけで何も得られなかった。
本来は家族が原因なのだから、存在を認めてもらうのは『家族』ということになるんだろうけど、医師からはそれは無理だろうと言われた。ぼくの家族にそれを求めてはいけない、と。
確かにその当時の苦しみを知ってもらって和解した部分はあっても存在を認めてもらうまでは無理だった。それは分かっているんだ。
親とはいえ相手も人間だもの。どういう人間かも分かってるしね。