専門学校時代

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少し自分に自信を持てるようになって専門学校へ入学するのだが

CADの専門学校に入ったが、クラスメートの9割が高校を卒業したばかりだった。年齢が離れている。中には二十代前半の留学生や、六十を超えた年配の方も一人いてくれたものの。

そんな中で、自分の心はまた萎縮してしまった。

話し相手はできたものの、年齢的なものをいつも意識するようになり、焦りが強くなる。当然うつ病で苦しんできたということも隠して通っていたし、大学を中退したということも卒業する日まで隠してきた。何しろ、クラスメートの多くが他者を平気で否定してくる者ばかりだったからだ。

ちなみに、専門学校に入る前に、姉と父は東京から地元の神奈川に移り住んでいて、僕は一軒家に一人暮らしになっていた。風呂やトイレ、洗面台がないなど苦しい環境に変わりなかったが、気持ちが少し楽になった。

周りより頑張らないと、という思いから、自宅でも自主的に課題を見つけて、3D-CAD(Solidworksというソフト)の扱いに慣れていった(プラモデルを買ってきて、パーツ一つ一つをモデリングしていった)。プラモデル・玩具の設計に興味を持てたことも、3D-CADが楽しいと思えたことだった。こういう姿勢はプラスに働いとことだった。

 ← MG 1/100 RB-79K ボール 第08MS小隊版

 

↑ 1/100 ガンダムF91 ガンタンクR44(CADソフト内では変形も可能)

↑ ワンコインフィギュア アーマード・コア ネクサス 3rd ブレインウォッシュ

それでも、学校に通うのがかなり億劫になったり、周囲に馴染めないなど、居たたまれなさは常にあった。自分を否定されているような気持ちにさせられることが多く、身体の震えを隠すのも必死だった。あの安曇野でのバイトの経験は何だったのか。自分に対して自信が持ててきたはずだったのに、また自信を失っていく日々だった。

二年目を迎え、就職活動というのも初めてした(大学は二年間しか在籍していなかったので)。

玩具会社を主に受けていった。やっぱり自主的に課題に取り組んでいたのも玩具を使ってだったし、正社員として仕事をするなら楽しいと思える仕事をしたかった。うつ病でも、楽しいと思える仕事ならきっと長続きできると思ったのだ。もちろん、小説家になるという夢もあきらめたわけではなかった。専門学校に通っている間もしっかり創作活動はしてきたし、インターネットの小説投稿サイトなども利用して腕を磨いていった。

就職活動では、バンダイナムコなどの就職説明会などにも参加した(エントリーシートを出す時点で断念してしまったが)。
しかし、小さい玩具会社など数社で面接試験を受けても、なかなか受からなかった。元から採用するつもりがないという態度のところもあった。
早く就職しろ、と親からはプレッシャーをかけられ続けていたので、学科内で一番早く内定はもらった。受かったそこは学校の卒業生も何人か入っている会社だった。玩具の設計ができる会社だと聞いていたのだ。

在学中の夏には東京ドームで清掃のアルバイトもした。これはとても良い経験になった。これをきっかけに東京ドームに野球を観に行こうと思うようになったり、ライブを観に行こうという気になれたので。みんな気軽に東京ドームに足を運んでいるんだなぁ、というのが知れたのが本当に大きかった。

卒業間近の冬には肺炎を起こして入院してしまった。三日ほどで退院できたものの、入院するという経験も初めてした。入院中は退屈で仕方なかったが。

父親はこの時に入院したことに対しても、のちのちかなり不服だったという言葉をかけてきた。

ただ二年間きっちり専門学校に通えてちゃんと卒業できたのは、かなりの成長だったと思う。卒業制作で大きなステージで発表する時も、震えを抑えてどうにかできたのだ。スピーチ時間もみんなの中で一番長かったという。話そうとすると、今度は話したいという思いが出てしまうらしい。

その時の写真とかを見ると、入院したこともあって大分やつれてはいたけれど。

六十代を超えた年配のクラスメートがいてくれたことも本当に大きかった。うつ病の自分でも学校卒業できた、よく頑張った、と自分を誉めてあげた。あの時は父親にも感謝の言葉をかけた。

そして、春から正社員として初めて働くことになるのだった。

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