東京を離れ、長野の工場で仕事。再びの転機。

スポンサーリンク
横長広告

 二十二の夏、家の生活があまりに苦しいので、寮付きのアルバイトをすることにした。

それが長野県安曇野での短期工場バイトだった。

バイトといっても、扱いは一応派遣社員。高速バスで松本市に行き、そこから大糸線に乗り、安曇野市へ。穂高駅の寮に入って(普通の賃貸アパート。家賃も結構取られた)、仕事がスタートした。

かなり多くの人が働きにやってきていた。それも色々な県からだ。北は北海道、南は沖縄まで。二十代・三十代が多かったが、みんな仕事がなくて困っている人たちだった。

一日中立ち続ける仕事で、とにかく体力的に過酷だったけれど、仕事を通じて人と接することに徐々に慣れていった。

ぼくと同じように人と接することが苦手な人も多くて、逆に気さくな人も多い。無口な自分に対してもよく話しかけてくれたし、受け入れてくれた。

同じラインには、アパートの部屋が隣の人もいた。入社が同じ日で、研修を受けたのも一緒。送迎バスも一緒なので、お互い人と接することが苦手ながら、帰りにはよく話すようになった。

自分から人に話しかけられるようになったのは、他者を完全に拒絶していた頃の自分からは想像もできないことだった。

職場では仕事をこなす処理能力がかなり高いと評価され、それもあってか自分に対して自信が少しずつ生まれ、周囲からも頼られるようになった。人を気遣うということもできるようになった。過酷な仕事をしていることもあって、仲間という意識がみんなの中で芽生えていた。

寮には愛用のワープロ専用機を持ってきていて、執筆活動をしていたのも気持ちを安定させられた一つの要因だった。

けれど、一か月で体力に限界が来た。眩暈と吐き気(えずき)が止まらなくなり、仕事ができなくなるほどまで症状が悪化した。内科の病院で診てもらうも異常はなし。やはり精神的なものだった。

それでも、なんとか任期満了までこなし、東京の家に帰った。

体調不良で仕事から離れるという結果になってしまったが、ここでの経験がぼくの狭かった世界観・視野を広げてくれ、少しずつ気持ちを良い方向に向かわせてくれるものになった。二十三歳で死ぬという考えを変えてくれたのもここでの経験のおかげかもしれない。生きづらくてもみんなそれぞれに頑張っている。みんなのためにももう少し生きてみよう、みんなのためにも小説家になろうと思ったのだ。

それに東京の家での生活では、同じ環境にいる姉とも仲が良くなっていた。同じ環境下で苦しみを味わう者同士、よく話すようになっていた。

翌年の二月、祖母が亡くなった。祖母には申し訳なかったが、苦しみの要因が一つ消えた。

以降もなかなか仕事ができないのは相変わらずで、うつの症状もひどいまま。苦しいとは知っていつつも、現環境から脱するために(熱中症にならないようにするために)、夏にまた長野の同じ工場でアルバイトをした。

豊科の寮に入って(去年とは別のアパート。2Kを知らない人と共有)、仕事がスタートした。
やはりかなり多くの人が働きにやってきていた。改めて、みんな仕事がなくて困っているんだな、と思った。

去年一度やっているので、楽な部分もあった。職場でもぼくのことを覚えていてくれる人がいてくれた。

体力的に過酷なのは相変わらずだったけれど、更に仕事を通じて人と接することに楽しさを感じられるようになった。特に、配置されたラインには気さくな人が多かった。よく話しかけてくれた。愚痴も言い合える仲になった(ほとんど聞き役だったけど)。

仕事をこなす処理能力はやはり高いと評価され、周囲から頼られ、人を気遣うということも同じくできた。去年以上に仲間意識を強く感じられた(というのも、自分たちのラインは社員から注意されることが特に多く、残業も多かった)。最終工程の自分には、遅れをカバーする・フォローする余裕があったため、精神的に楽だったのかもしれない。

こういう時でもしっかりワープロで執筆活動を行えたのもやっぱり精神的に良かった。

じわじわ吐き気に苛まれたが、体力に限界が来る前に二か月の任期満了までこなし、東京の家に帰った。

やはりもう少し生きてみようという気になれた。自分と似た境遇の人を見て、人と接することに慣れ、自信を持つこと自己を肯定することの大切さを初めて体験したのだ。

それから翌年、専門学校に入ることになる。

※ 引き寄せでも大事といわれているのは自己肯定。うつ病の改善にもやはり自分に対しての自信を持つことと、自己肯定が大切なのだ!
スポンサーリンク
レクタングル大
レクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする